現実感がない


れいちゃんの死は、自分の死を考えてもピンとこないのと同じくらい想像できないことだったので、現実感がわきません

もう甘えた鳴き声を聞くことも、抱き上げて日なたの匂いをかぐこともできないのかと思うと、そりゃつらいしさみしい。
だけど、悲しくはない。
惜しみない愛情を注いだつもりだいから。
できれば、もうちょっと生きてくれてもよかったんじゃ?と思わないでもないが、今日死ぬことがれいちゃんの運命だったのだろう。
もしも夕べ、発作(推定死因)を起こす前に家に入れていたとしたら、夕べは大パニックだったろう。
そしてそれは、朝まで続いたろう。夫は会社に行くことを考えあぐねてしまうだろうし、私ももっとショックを受けたと思う。
夫を送り出し、のんきに洗濯物を干しているときに見つけたから、こんなにしずかな気持ちでいられると思うのだ。
ゆうべ聞いた「ウギャア!」という悲鳴は、息絶える寸前の断末魔だったのかもしれない。
れいちゃんは、ひとりぼっちで夜露に濡れて息絶える代償に、私たちに平和な夜をプレゼントしてくれたのだ。
いつかくるこの日を思って、毎日を大切に過ごしたから悔いはない。
とてもリアルに思い出せる。毛並みの手触り、歩いている姿、抱いたときのずっしりとした重さ、しがみつく爪の感触、気持ち良さそうな寝顔、喉をゴロゴロいわせながら甘える仕草、日なたの匂い。
ただ、最期を看取ってやれなかったことだけが悔やまれてならない。ひとりぼっちで苦しい思いをさせて、とても申し訳なく思う。
ジュラのときのように、腕の中で死なせてやりたかった。

れいちゃんと一緒に暮らして、本当にしあわせだった。
ありがとう、れいちゃん。

Posted: 木 - 2月 5, 2004 at 01:15 午前              

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