2001年9月

9月30日(日) 

 冬の終わり頃だったと記憶にあるが、小さなポットに入ったアイビーを買った。
「アダム」という種類、白い縁取りがあり葉っぱはシャープで細め。
 けっこう伸びたので、トレリスなどが必要になった。
 でも、平凡な格子状のものより動物をかたどったものなどないかなあ。と探していたら「トピアリー」に出会った。
 フレームに水苔を詰め、好みでアイビーなどを植え付けるものだ。
 今日、図書館でそれについての本を1冊見つけたので借りた。
 夕飯は「チーズフォンデュ」と決めて、細長いバゲットも買ってきたのだが、予定変更でマクドナルドのドライブスルーになった。
 8月にオープンした市内のスーパー銭湯のタダ券が、今日まで有効だったため、私がひとりで入りに行くことにしたのだ。
 すこし偏頭痛ぎみだったので、様子を見ながら入った。
 すぐとなりがマクドナルドなので、ドライブスルーで買って帰る。
 帰って「アマデウス」を見ながら食べた。
 構成が、私が予想していたのとは違っていた。また、もっと大きな「見せ」の場面があるかと思っていたが、それもなかった。
 でも、いい映画だった。
 サリエリが、自分の圧力で5回で上演を打ち切りにしたという「ドン・ジョバンニ」、サリエリはその5回全てに通い詰め、彼(モーツァルト)の音楽に酔いしれた」と告白したシーンで、家人が「まさに愛憎は表裏一体だね」と言った。私は、そういう一般的に知られている人の思考について、耳にしたことはあっても、いまひとつぴんとこない。これが、自分の人間関係で悩むことがおおい理由なのだろうか。
 この夜は、睡眠導入剤を飲んでも眠れず、いつのまにか歯をくいしばっていて、しかも頭痛までしていて、しかたがないのでもう1つ飲んで、ようやく明け方眠りについた。

9月29日(土) 現象

 ドリアン助川さんが、何かに寄せた文章に「すべてのことは、『現象』にすぎない」と書かれていたのを以前読んだことがある。例として「あなたが生まれたということも、単なる現象だ」と挙げておられたが、銀色夏生さんの「つれづれノート」に綴られた真意を以前よりは正確に把握できる今、ドリアンさんの言葉も正確に私に届く。
 そう理解できると、精神まですっきりと研ぎ澄まされていくようでほっとする。

9月28日(金) タイダな日々

 今日こそはきびきびと暮らそう!と、家人のお弁当をつくって送りだして、トーストの朝ご飯を食べたところまではよかった。
 不治の病を患いほそぼそと生きているジュラがかぜをひき、猫ちぐらの中でじっと耐えているのをみてかまいたくなった(いい迷惑だ)。ひっぱり出して、抱いてベッドにもぐり込む。寄り添っていると温かいので、喉をゴロゴロいわせている。
 ジュラは、1時間ほどでベッドから抜け出て1階へ降りて行った。
 私もちゃんとしよう!と、犬の散歩に行った。
 あざみが咲いてたら摘んで来よう、と思ってポシェットとはさみを持っていった。
 あざみと野の花を少し摘んで帰った。
 そしてお風呂に入った。
 あまりにも体がこわばっているような気がして、お湯に浸かれば少しは良くなるかと思ったのだ。
 銀色夏生さんの「つれづれノート4」を読みながら入浴。
 上がって、オイルサーディンをフライパンでジュウジュウ焼いてゴハンを食べる。
 すると、宅配便が来た。
 なんと「ナマシボラー」が当たったのだ。
 さっそく開けて、食べながら説明書を読むと、メンテナンスがとてもめんどくさいことがわかった。
 片づけがとても苦手で嫌いな私は、未使用のままネットオークションに出そうかと考えた。とりあえず、家人にモノを見せよう。
 夕方、偏頭痛になった。
 私は頭痛持ちで(肩凝りによるものと思われる)、たいていは緊張型頭痛なのだがときどき偏頭痛になることがある。偏頭痛のときは左側がずきずきと痛む。
 ところで、前出の「つれづれノート」はシリーズで、最新は10まで出ている。
 ここのところ、私のくつろぎタイムは、昔のつれづれノートを読むことである。
 という訳で、鎮痛剤を飲んで今できる最善のこと、つまりつれづれノートをベッドで読むことにした。
 順番はバラバラだが、1〜5まで読み返してしまった。今は6で「バラ色の雲」というサブタイトルで、最初のあたりで銀色さんは離婚をしている。ご本人も淡々と受けとめてらっしゃるが(直後はさすがに「落ち込んだ」と書かれている)、私もこれを初めて読んだときは、申し訳ないが笑ってしまった。
 つれづれノートは、吉本ばななさんに「偉大な日常」と絶賛されているが、読み返して私もそう思った。本屋で見つける都度買って読んでいるのだが、その当時は、気ままでたくましく自由な生活を「すごいなあ、いいなあ」と思っただけだった。銀色さんの、ものごと・できごとへの向きあい方のうまさ、素晴しさはわかっていなかった。
 だから、今回気づいてよかったと思った。
 「昔読んだときと、感じたことが違った」という経験は初めて。
 と思ったけど、違う。「優しくってすこしばか」を読み返して同じような経験をしたんだっけ。
 ちなみに、銀色さんの離婚の理由は、相手が「(銀色さんには)ついていけない」と別の女性を好きになって出ていったから。だった。
 私も、銀色さんほどではないが奔放に生きている方だと思うので、いつなんどき家人に「真理子にはもうついていけないよ」と追い出されるのではないかと、思っているのだった。
 そうなったら出ていくしかないけど、そのときはマックとジュラとかんちゃんは連れて行くか。できれば、デジタルピアノも持って行きたい。

9月27日(木) 本から得ること

 今日、藤野真紀子さんの本を読んだ。
 とても共感でき、また反省させられることが書いてあって、いい収穫となった。
 ここに引用すると、
 
 私が考えるエレガンスとは何か-。それは他人の気持ちがわかり、思いやりがあること。常に相手のことを考えている人は、言葉遣いも表情も立ち振る舞いも、自然とエレガントになるものです。(略)常に相手を優先し思いやることは、自分を大切にしないということではありません。むしろその反対でしょう。自分を大切にし、自分自身に満足していれば、他人を妬んだり恨んだりすることもなく、平穏な気持ちでいられるはず。そういった幸福感を持てる人が、他人に対しても優しくなれると思うのです。自分を愛せない人は、他人を愛することもできません。

 自分を愛することイコール自分を甘やかすことではないと、私は、ここ数年でようやくわかった。だけど、ついつい忘れがちで、人生を楽しむことができない。
 また、藤野さんのご主人が「怒ってはいいけど、責めてはいけない」とおっしゃったと書いてあって、そういう傾向にある私は反省した。
 言い訳になってしまうが、私は十何年前の学生時代、ゼミで「ディベート原論」を学んだのだけれど、その影響だと思うが、相手の話の矛盾や虚言をつきつめるくせがある。しかも、持って生まれた性質が「ウソで誤魔化されるのが死ぬほど嫌い」なので、気をつけなければと思う。
 
 話は変わるが、9/24の日記の「バスタブの底の光の模様」は、白熱灯でもできることに気づきました。でも、入れる入浴剤に因るかもしれません。気づいたときに入れたのは「クールバスクリン・マリンブルー」です。模様の大きさも、ろうそくの灯のときよりも大きくてぼんやりとしてて鮮明ではありませんでした。
 それから、ひらちゃんの本名は「平石」であったと翌日思い出しました。

9月26日(水) にわかガーデナー

 実家の両親が庭の手入れに来てくれた。
 うっそうと繁った雪柳と、家を飲み込む勢いのジャスミンを剪定してくれた。
 ジャスミンは「別のを植えたら?」と勧められ、根こそぎ処分した。
 その後に、ホトトギスを植えてくれた。
 去年の初冬から「球根」に目覚めた私は、とりあえず数種類のチューリップとクロッカスをプランターや植木鉢に植えた。
 まあまあの咲き具合だったが、やはりそれなりの知識が必要だと思って何冊か園芸の本を読んだ。それでもわからないことはあって、両親に聞くとたいてい知っていてわかりやすく教えてくれるのだ。
 なので、今日は両親に色々教わりながら一緒に植えようと思っていたのだが「まだ早いよ」と言われた。猶予ができたので、図書館で本を借りてきて、ゆっくりレイアウトを考えようと思う。
 いつか垣根を作って犬を放し飼いにしたいと思う。と話したら「それはいいね」と両親も賛成してくれた。
 はやくすてきな庭にしたい。
 

9月25日(火) やりくりを考えた日

 家人の給料日。
 銀行を3軒回った。
 夜は久しぶりにステーキを焼いた。
 食べながら「恋に落ちたシェイクスピア」を見た。

9月24日(月) みなそこに うつろう光は 若かりし日々

 日が暮れない内に風呂に入るのが好きだ。
 ろうそくに火を灯し、文庫本を持ち込んで5時半頃入った。
 めっきり日も短くなって、ほどなくろうそくに近づかなくては字を追えないように暗くなった。
 バスタブのふちにろうそくを置いてお湯を揺らすと、水底にステンドグラスのような模様が描かれる。晴れた日のプールの底に見えるアレだ。
 白熱灯ではその現象は起こらない。
 どうして?
 きちんと説明できる理論があるのだろうが、もちろん私は知らない。
 これは物理の分野だろうなあ、と思ったら古い知りあいを思い出した。
 ひらちゃん。
 平田、平井、平沢のどれかがひらちゃんの名字だ。
 私が知りあったときは、駒場にある日本一有名な大学の大学院に水戸の自宅から通っていた。年は、私よりひとつかふたつ下ぐらいだったと思う。
 「波の研究をしてるの」
 まあ、わかりやすく言ってくれたのだろうが、砂浜に寄せては返すあの波にそんなに未知な因数があるというのが驚きだった。
 勉強ができることを鼻にかけたりせず(そんな年齢でもなかったし)、地元の学生と一緒にサンドイッチマンのバイトをしたり、ライブハウスでおもしろい司会をしたり、ひらちゃんは人気者だった。女の子にもよくもてた。
 黄門祭りで会社のネーム入りの法被を着て踊っている私に「真理子さん!」と声をかけてくれ、「あれー、見に来たの?」と見ると、品のよさそうなお母さんと一緒だった。あわてて会釈すると、ひらちゃんのお母さんもはにかみながら会釈した。
 ひらちゃんも恥ずかしそうにしながらもニコニコしていた。
 ああ、なんて幸せそう...と思ったら、ひらちゃんがみんなから愛される理由がわかったような気がした。健やかな精神は、幸せな家庭から生まれるのだ。
 今、どうしてるんだろう?
 就職したのかな?
 大学の研究室に残ったんだったらまだ助手クラスだろうなあ。
 学生のたまり場だった、あの店に行けば逢えるのだろうか?
 そしたら聞いてみたい。
 「ねえひらちゃん。どうして晴れてる日はプールの底に模様ができるの?」
 きっと「酔っぱらって忘れちゃったよー!」って言うだろうなあ(笑)
 

9月23日(日) 傷心

 私は、悲しいことがあったり、傷つけられたりすると、体に異常をきたす。
 起きたものの、気持ちが沈んで食欲がなく、夕方4時半頃トーストを食べる。
 家人に「チャーハンを食べたい」と言われて中華鍋を振る。
 私も食べたが、吐いた。
 フロに入り、「恋に落ちたシェイクスピア」を観た。
 面白かった。

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